敦賀フィルムコミッション
大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」
大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」
 平成23年大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」は浅井三姉妹の三女・江の波乱に満ちた生涯を描いた物語です。敦賀は、浅井三姉妹とその母・お市の運命を変えることになった様々な出来事が繰り広げられた地であります。
 また、関ヶ原の戦いの場面に登場する戦国武将・大谷吉継は敦賀城主として敦賀の繁栄に力を注いだ人物です。
相関図

相関図
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敦賀とお市・浅井三姉妹
金ケ崎の戦い 〜数奇な運命の序曲〜

 織田信長の妹・お市が浅井長政に嫁ぎ誕生したのが、お茶々・お初・お江の三姉妹。元亀元年(1570年)、信長は越前朝倉氏との戦いにおいて、敦賀・西福寺を焼き、天筒山・金ヶ崎城を攻め落としました。しかし、お市の夫であり、浅井三姉妹の父である浅井長政が信長を裏切り、その後背を突きます。これを知ったお市は、兄・信長に知らせるため、両端を結んだ小豆袋を密かに信長の陣中に送ったといわれています。浅井の裏切りを知った信長は、羽柴秀吉を殿軍にして金ヶ崎城を脱出し、若狭を通って京に逃れました。

 信長にとって義弟である浅井の裏切りは許し難いものであり、これが三姉妹の数奇な運命の序曲となったのでした。

再び敦賀での戦い 〜運命の岐路〜

 天正元年(1573年)、敦賀の刀根坂や疋壇城での戦い、その後の小谷城の戦いの末、朝倉・浅井は滅亡に追い込まれます。この際、お市と三姉妹は織田軍に引き渡されました。その後お市は越前北庄城主・柴田勝家と再婚し、三姉妹は母とともに越前で過ごすことになります。

 天正11年(1583年)勝家は秀吉との賤ヶ岳の戦いにおいて敦賀・玄蕃尾城に本陣を置きました。その戦いに敗れた勝家は北庄城に戻り、お市とともに自刃し、城を逃れた三姉妹は秀吉に預けられることになりました。その後三姉妹はそれぞれの道を歩み、戦国の覇権争いに深く関わっていくことになります。
敦賀と大谷吉継
 天正17年(1589年)敦賀城主となった大谷吉継は、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて、厚い友情に結ばれた石田三成率いる西軍につきます。しかし味方の裏切りから大谷軍は全滅。吉継は自刃し、その生涯を閉じました。

 忠義と友情に殉じた知将として知られる吉継。その才知は敦賀城主としても発揮され、敦賀の町立てや、商業の繁栄に力を注ぎました。
〜ゆかりの地〜
こちらでは、敦賀に関する「〜ゆかりの地〜」をご紹介します。
永賞寺永賞寺
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敦賀城主「大谷吉継」ゆかりの寺で、市指定文化財の九重塔は吉継の供養塔と伝えられています。
(敦賀市栄新町11-20)
常宮神社常宮神社
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新羅の国で作られたと伝えられる「朝鮮鐘」は、豊臣秀吉の命により、大谷吉継が常宮神社に奉納したといわれています。
(敦賀市常宮13-11)
金崎宮金崎宮
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金ヶ崎の戦いの際、浅井の裏切りを知らせるため、お市が信長に送ったといわれる小豆袋のお守りがあるなど、難関突破と恋の宮として知られています。
(敦賀市金ヶ崎町1-1)
来迎寺来迎寺(らいこうじ)
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移築された敦賀城の中門が残っています。
(敦賀市松島町2-5-32)
八幡神社八幡神社
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大谷吉継が寄進したといわれる灯龍や欄間などが現存しています。また境内には郷土博物館も併設されています。
(敦賀市三島町1-3-3)
西福寺西福寺
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良如上人が開いた浄土宗鎮西派の中本山です。大谷吉継や豊臣秀吉が発給したといわれる文書が残っています。
(敦賀市原13-7)
真願寺
真願寺

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敦賀城の乾門跡に建てられた真願寺の境内には、敦賀城に使われていたと言 われる礎石が残っています。
(敦賀市結城町14-1)
玄蕃尾城玄蕃尾城
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賤ヶ岳の戦いにおいて、柴田勝家が本陣を構えたといわれています。