みんなの文化財 第3、4、5回 史跡玄蕃尾城跡(1)(2)(3)

玄蕃尾城縄張り図
史跡玄蕃尾城跡(1)
玄蕃尾城跡天守台の写真
史跡玄蕃尾城跡(2)

みなさんの中には初めてこの名前を目にする方もあるかもしれません。玄蕃尾城は、敦賀市刀根(とね)と、滋賀県の余呉(よご)町柳ケ瀬(やながせ)との県境にある内中尾山(標高460m)に築かれた戦国時代末期の山城です。天正11年(1583)、織田信長の後継者の地位をめぐって豊臣秀吉と柴田勝家が争った「賤ヶ嶽(しづがたけ)の戦い」で、勝家の本陣となりました。この城は、国内の山城としては最終段階のモデルとして、使われた時期がはっきりしていること、固い防禦と素早い攻撃ができるよう、縄張り(なわばり)が非常に発達していること、そして何よりも壊れずに大変良く残っていることから、平成11年、国の史跡に指定されています。

『縄張り』 
城館の平面構成のことで、住居でいえば間取りにあたります。
地形を生かし、本丸を始めとする郭や通路、土塁や堀などを配置することで、設計のため地面に間縄(けんなわ・目盛りをつけたロープ)を張ることから、こう呼ばれます。戦国時代の後半には、縄張りが複雑になり、よく発達します。


では、玄蕃尾城は、なぜ人里離れた山中に築かれたのでしょうか。この地は、北近江から栃ノ木峠を経て越前に向かう北国街道と、柳ケ瀬から分かれて敦賀に入る刀根越えの道を同時に抑えることができます。もともと国境の守りとして砦ぐらいはあったかもしれませんが、天正10年(1582)6月、信長が斃れて後、近江長浜城主である秀吉との衝突を予期した勝家が、領国・越前南端の備えとして、長期戦に堪える山城をここに築いたと考えられます。
しかし、実際の合戦では、賤ヶ嶽での戦闘で負け軍(いくさ)を覚悟した勝家が、さっさと本陣を捨てて北ノ庄に引き揚げたため、玄蕃尾城で戦闘が行われることは遂にありませんでした。

『天守閣』
建物の屋上に設けられた望楼(物見櫓)が発達したもので、天主または殿守とも書き、近世のお城では中核になる建築物です
天正4年(1574)、織田信長が安土城を築いて以後、権力の象徴として建てられるようになりました。
現存する天守閣は全国で12箇所あり、いずれも国宝か重要文化財に指定されています。


わが国では、古代の特殊な例を除き、南北朝時代頃から、戦の拠点として、山城がさかんに築かれ始めました。戦国の世が過ぎて天下が平定されると、山城はその役目を終え、替わって政治の中心として、平地に城が建てられるようになりました。
現在、玄蕃尾城には、建物など作事の跡は何も残っていません。が、4.6ヘクタールに亘って築かれた郭や土塁、堀などは、今日の我々を驚かせます。これだけの普請を行うには、地元の大勢の人々の協力なしにはできなかったでしょう。
つまり、城は決して戦人(いくさびと)のものだけではなく、それを支えた民衆のものでもあるのです。そして今日の私たちにとって、玄蕃尾城は、かけがえの無い歴史遺産であるのです。

『普請(ふしん)』と『作事(さくじ)』
城を築く際、地面をならしたり、堀や土塁を造ったりする土木工事のことを普請といい、その上に建つ建物の建築や修繕のことを作事といいます。
玄蕃尾城の作事については不明ですが、普請の跡は非常によく解る、というわけですね。


玄蕃尾城跡から余呉方面を望む
史跡玄蕃尾城跡(3)

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