このページの先頭ですサイトメニューここから
このページの本文へ移動
サイトメニューここまで

本文ここから

みんなの文化財 第6~8回 敦賀の山車 (1)(2)(3)

最終更新日:2015年3月1日

  • 第6回 敦賀の山車 (1)
  • 第7回 敦賀の山車 (2)
  • 第8回 敦賀の山車 (3)

■9月初頭に開催される敦賀祭りのシンボルとなっているのが6基の山車(やま)です。現在はみなとつるが山車会館(相生町)で、そのうちの3基をいつでも見ることが出来ます。
山車の構造は二層露天式・高さ約3メートル。車輪は左右3輪の合計6輪あるのが敦賀の山車の特徴で、カーブを曲がりやすいように真中の2輪は径が大きくなっています。
周囲に漆塗りの高欄がめぐる上層部前方には,等身大の人形の,武具を構える動きも生き生きと合戦の模様などが表現されています。中ほどには枝ぶりも見事な松と、太陽と月に見立てた金銀の玉をつけた幡竿が立てられ,後方には金襴をかぶせた扇型の幌が載っています(御所辻子山車を除く)。
人形は山車一台に2~3体ずつ乗っています。古くから伝わる能面と甲冑を着け,袖には金襴銀欄蜀江錦等を用いています。また山車の周囲にはこれも金襴や羅紗に金糸銀糸の刺繍,などといった水引幕や見送幕が掛けられています。こうした豪華さ華麗さが敦賀の山車の自慢となっています。

■ひとこと解説
『山車の名前』
明治初頭や太平洋戦争後に旧敦賀町内の町名や町の編成は大きく変わりましたが,現在,山車は江戸時代の町名で呼ばれています。
御所辻子(ごしょのずし)は現在の元町と桜区,唐仁橋・観世屋町(かんじゃまち)・鵜飼ヶ辻子(うかいがずし)・東町が相生町、金ヶ辻子が蓬莱町です。
江戸時代は通りを基本的な単位として町が構成されていたので、「辻子」とつく町名がたくさんありました。

■敦賀の山車がいつごろ始まったものか,正確にはわかっていません。ただ中世末期~近世初期にかけて敦賀湊が最も栄え,商人達が大きな力を持ったことと、山車の発展は深い関係にあったと言えるでしょう。
江戸時代始め頃、気比神宮の例祭には12の町が東番西番に分かれ1年交代で6基ずつ出した山(大山)のほかにも、町衆が個人や組合で用意した囃子を伴う仮装行列風の通り物と考えられる「練り物」や、造花等で飾りたてた「かき棚(担ぐ山)」「地車(曳き物)」が出て祭りを盛り上げました。その豪華さ,華やかさは小浜藩からたびたび縮小を命じられるほどでした。こうした「練り物」「かき棚」「地車」は幕末には「練物山」と称され,後世「小山」と呼ばれるようになった山車に変わっていったと考えられます。この小山は多いときには約50基出たと言われています。
明治になると社会の状況が大きく変わり,明治6年にそれまでの山車(大山)はあまりに大きすぎて軒を壊したり,けが人が出たりするという理由で廃止となり,東西十二町は小山を1基ずつ出すことになりました。現在残っている山車はこの小山の方です。

■ひとこと解説
山車の順番
山車(大山)を出した町は東番が御所辻子・浜島寺・東浜・唐仁橋・東町・中橋,西番が観世屋町・西町・鵜飼ヶ辻子,金ヶ辻子・西浜・船町です。
東西の組それぞれが山車を出す年に,その曳き出す順番をくじびきで決めました。このくじびきを行うのが午腸祭(ごちょうさい)で、この時から敦賀祭が始まる,と昔から言われています。
ちなみに御所辻子山車は、山車上の楼閣に恵比寿神を勧請するため、くじなしで一番手に曳き出すことが江戸時代から決まっており、現在でもそうなのです。


敦賀の山車 (3)

■山車は山鉾、曳山、だんじり、などと地域によって色々な呼ばれ方をします。この曳山の出る祭りは全国に千以上あります。それらの根源的なルーツとしてあげられるのが、京都の祇園祭(祇園御霊会)です。
京都は古くから都市として発達しましたが、都市には疫病が蔓延しやすく,その病気の原因は恨みを残して死んだ人の霊=や疫神のたたりだと考えられました。この御霊や疫神を都市の外に送り出すため、趣向を凝らして飾った作り物に依り付かせ,にぎやかに囃したてて送りました。作り物の根幹をなすのは高い柱や松などの木,山で,それらは神が依り付くものとの認識があったとされています。作り物は本来は壊されたり焼かれたり,あるいは水に流されたりするものでした。こうした作り物やそれを囃すための装置が,祇園祭の山鉾の原型だと考えられています。
敦賀の山車の中央に立てられる松はまさしく神の依り代であるといわれます。山車の松だけは小浜藩領となっていた気比の松原(古くは気比神宮の神領)で切り出すことが認められていました。そこには依り代となる松を神聖なものと見る意識が感じられます。
また扇形の幌は山の作り物が原型であったと考えられます。御所辻子山車だけは幌の代わりに恵比寿神の神像を安置する三層の楼閣を乗せていますが、依り代としての山の作り物と意識の上で大きく隔たるものではないでしょう。
そして敦賀の山車は,山車会館が出来るまでは、祭りが終わるとその日の内に飾りを全て取り去り,一部ではありますが解体されるものでした。そこには古い御霊会に見られる,寄り付かせた疫神を作り物ごと焼いたり水に流したりするという意識の名残が感じられるのです。

■ひとこと解説
『祭りの広がり』
現在は一ヶ所でしか行われていない祭りでも,以前は近隣の村や町で似かよった内容のお祭りが行われていた,ということがよくあります。(もちろん祭りのような行事だけでなく信仰や生活習慣といった民俗そのものがそうですが)
山車の祭りにも、地域の中心的な都市で行われているもの(それもまた京都のような大都市の影響を受けて始まったもの)が周辺に伝わったり、影響を与えたりする例が多く見られます。
三方郡には大きな松を立てる山車がいくつか見られますが,これらは敦賀の山車の影響を受けていると考えられています。

情報発信元

文化振興課

敦賀市 中央町2丁目1番1号
電話:0770-22-8152
ファックス:0770-23-6944

お問い合わせフォーム

本文ここまで

サブナビゲーションここから

情報が
見つからないときは

サブナビゲーションここまで

以下フッターです。

敦賀市役所

〒914-8501 福井県敦賀市中央町2丁目1番1号
電話:0770-21-1111(代表)
Copyright © Tsuruga City All Rights Reserved.
フッターここまでこのページのトップに戻る