このページの先頭ですサイトメニューここから
このページの本文へ移動
サイトメニューここまで

本文ここから

みんなの文化財 第10・11回 旧大和田銀行本店(1)(2)

最終更新日:2015年3月26日

第10回旧大和田銀行本店(1)

現在、相生町の石畳風の舗装が施された街路に面してどっしりと立つ敦賀市立博物館・旧大和田銀行本店の建物は、大正14年(1925)から昭和2年(1927)にかけて建設されました。
構造は地上3階地下1階、鉄骨レンガ造(一部鉄筋コンクリート造)で、建設当初からエレベーターを備えていました。ほぼ建築当初の姿を保っている石造りの外観は、1階部分は円柱・角柱のドリス式の付け柱や、独創的な装飾を持つ入り口部分の庇など華やかな造形を見せますが、2・3階は一部を除いて直線的な意匠になっています。内部には、イオニア式やコリント式の柱頭で飾ったエンタシスのある独立円柱が見られます。壁・天井は漆喰で仕上げられ、天井の照明器具を取り巻くように装飾などが施されています。1階の西側の階段は大理石が用いられている他、一部床にはタイルを用い、壁面の腰部の板張りにも細工が施されています。

ひとこと解説 『北陸最初のエレベーター』

本で最初に電動式のエレベーターが設置されたのは明治23年(1890)、東京上野の「凌雲閣」という十二階建ての展望塔でした。関東大震災後の大正末から昭和初期頃には全国で約2,000台のエレベーターが稼動していたということです。
博物館で使用するエレベーターは、修復工事に際して、現行基準に即したものに取替えましたが、実は建設当初のエレベーターが残っています。3階に展示されている当初のエレベーターの二重の斜格子式の扉や運転用ハンドルを目の当たりにすることが出来ます。
ちなみにこのエレベーターは北陸で最初に設置されたエレベーターだと言われています。

第11回 旧大和田銀行本店(2)

大和田銀行は明治25年(1892)に大和田荘七が創業し、当初は現在のみなとつるが山車会館の別館が本店となっていました。こちらの店内は昔ながらの商家のスタイルでした。
敦賀港は明治32年(1899)の開港場指定以来、対岸貿易の開始、ロシアのウラジオストクとの航路開通などを経て明治の末から国際港として発展を始めました。大正期には第一期港湾修築工事も行われ,ロシア革命によって対露貿易が衰退すると、今度は朝鮮半島との貿易が盛んになり、特に牛の輸入が行われ、敦賀には生牛市場が開設されました。
このような中、これら港の発展に尽力した大和田荘七により、新しい大和田銀行本店は新築されました。おそらくは国際化や敦賀港のシンボルとなることを多分に意識していたことと思われます。
1階部分は銀行の業務が行われ、2階が貴賓室、3階がホール、地階には金庫や機械室のほか、京都都ホテルによるレストランが営まれていました。また、夏になると屋上(この建物は地上3階とはいっても、現在のマンションの5階建てくらいの高さがあります)でビアガーデンが開かれたということです。
戦前の洋風建築の多くが現在までに失われてしまいましたが、市立博物館の建物は、近代敦賀港の繁栄を伝えてくれる貴重な遺産として、「旧大和田銀行本店」の名称で福井県指定文化財(建造物)に指定されています。

ひとこと解説 『博物館通り』

博物館の前の道は現在では一方通行の細い街路となっていますが、かつては商店などが建ち並び、現在の元町・児屋の川まで続く敦賀のメインストリートでした。また、大和田銀行の斜め向い、同じ晴明町内(現・相生町)には大正7年(1918)から敦賀郡立朝市場が開かれました。それまで朝市は寺院などで慣習的に行われていましたが、この場所に篤志家が土地建物を寄付したことから、やがて公設の朝市場として敦賀町の食料需要を支えるようになったのです。
現在では、この市場にちなんで、月1回・第3日曜日に博物館通りで晴明の朝市が開かれています。さらに平成24年度から「博物館通り賑わい創出プロジェクト」が始動し、福井県や敦賀市などの行政機関と地元商店街などが連携し、道路の石畳化や電線の地中化、古い町家の改修などの整備が行われました。

情報発信元

文化振興課

敦賀市 中央町2丁目1番1号
電話:0770-22-8152
ファックス:0770-23-6944

お問い合わせフォーム

本文ここまで

サブナビゲーションここから

情報が
見つからないときは

サブナビゲーションここまで

以下フッターです。

敦賀市役所

〒914-8501 福井県敦賀市中央町2丁目1番1号
電話:0770-21-1111(代表)
Copyright © Tsuruga City All Rights Reserved.
フッターここまでこのページのトップに戻る