更新日:2020年7月21日
平成28年10月3日、氣比神宮境内地のほぼ全域が、福井県内で初めて 名勝「おくのほそ道の風景地」に指定されました。
『おくのほそ道』本文に「けいの明神に夜参す」とあることから、「けいの明神(氣比神宮境内)」が指定名称とされています。
仲秋の名月と氣比神宮
氣比神宮社殿
土公
氣比神宮大鳥居(重要文化財)
松尾芭蕉(1644年から1694年)が記した『おくのほそ道』および弟子の曾良の『曾良旅日記』に書きとめられた優秀な風景を伝える場所を、国が「おくのほそ道の風景地」として名勝に指定しました。
国指定文化財等データベース(文化庁)のページです。
「条件を指定して検索する」のところの名称に「おくのほそ道の風景地」と入力し、検索してください。
芭蕉は「おくのほそ道」の旅の終わりに敦賀を訪れました。福井で、旧知の等栽と再会し、「名月はつるがのみなと」で見ましょうと、敦賀を目指しました。仲秋の名月前夜の8月14日に敦賀に到着した芭蕉の様子は、『おくのほそ道』の中で次のように記されています。
『その夜、月殊に晴たり。「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷けるがごとし。往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈り、土石を担ひ、泥亭をかはかせて、参詣往来の煩なし。古例今にたえず、神前に真砂を荷ひ給ふ。「これを遊行の砂持と申し侍る」と、亭主のかたりける。』
氣比神宮は越前国一宮で、鎌倉時代末期に遊行二世他阿上人が自ら砂を運んで参道を整備したという「お砂持ち」の逸話が伝わっている場所であり、芭蕉はこの「お砂持ち」の神事と月夜を「月清し遊行のもてる砂の上」と詠みました。
芭蕉と敦賀
明月の当日、雨のため楽しみにしていた敦賀での名月を見ることがかなわなかった芭蕉は、その心持ちを「名月や北国日和定めなき」の句に残しています。
芭蕉は、さらに種の浜(色浜)を訪れ、「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」「浪の間や小貝にまじる萩の塵」の2句を『おくのほそ道』に残しています。『おくのほそ道』に「其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す」とあるとおり、色浜の本隆寺には「紙本墨書 松尾芭蕉色ヶ浜遊記」(敦賀市指定文化財〔書跡〕)が残されています。
また、芭蕉は敦賀での宿所であった出雲屋に、道中で使用した杖と笠を残したとされ、現在、杖が敦賀市指定文化財(歴史資料)に指定されています。
曽良旅日記
芭蕉に先だって敦賀を訪れた曾良も、「ツルガニ着。先、気比ヘ参詣シテ宿カル」と『曽良旅日記』に記しており、氣比神宮来訪が敦賀を訪れる主な目的の一つであったことを示しています。
氣比神宮
氣比神宮(けひじんぐう)は、大宝二年(702)の創建と伝えられ、古代から中世にかけて越前国の一宮(いちのみや)として勢力を誇りました。戦国時代末期、朝倉氏と命運を共にしたため兵火に遭いましたが、江戸時代に再建されました。昭和20年(1945)の空襲では、社殿ほか主要な建築を焼失したものの、幸いにも大鳥居は残りました。大鳥居は、現在国の重要文化財に指定されています。
1分08秒から1分54秒頃に「氣比神宮」が紹介されています。