敦賀港の歴史
最終更新日:2015年3月1日
江戸
敦賀港は敦賀湾奥部に位置する天然の良港として、古くから我が国各地域とアジア大陸を結ぶ交易拠点として栄えてきました。
江戸中期以降西廻り航路の発達によって、北国と京都・大阪との交流が盛んになるにつれ、敦賀港は北前貿易の中継基地として、また、蝦夷地開発に必要な建設資材、生活必需品の供給基地として繁栄しました。
江戸 内海元紀筆「敦賀津図」
明治
敦賀港の開港運動が実を結び明治32年開港場に指定されました。明治35年にはウラジオストクと敦賀港との間に定期航路が開設され、明治42年には港湾整備拡充の目的で第一期修築工事が内務省直轄で開始されました。その後敦賀にロシア領事館も開庁され、明治45年から、週一往復新橋から金ケ崎間に欧亜国際連絡列車が走り、シベリア鉄道を経由して、遠くヨーロッパ諸国に直結されて、敦賀は一躍交通の要路として位置づけられました。
明治 明治42年「越山若水」より
大正
大正11年には、現在の敦賀港の原型を築く大規模な港湾整備に着工しました。
また、大正14年にはソ連領事館も開庁しました。(昭和19年まで)
大正 絵葉書
昭和
昭和26年には重要港湾及び出入国港に指定され、昭和28年に港湾管理者は福井県になりました。
その後、昭和30年には北海道定期航路が開設され、また、対ソ貿易も再開され港勢は回復に向かいました。
昭和52年には港湾機能拡充と再編を期して、外港地区に鞠山新港整備計画が策定され、現在大型岸壁が整備されています。
昭和 絵葉書
平成
平成11年に開港100周年を迎え、平成22年には水深ー14mの鞠山国際物流ターミナルが供用を開始しました。今後も魅力的で活力あふれる港町を形成するため、各種の施設整備に取り組んでまいります。
平成 写真