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みんなの文化財 第21~23回 西福寺の文化財(5)(6)(7)

最終更新日:2015年3月1日

  • 第21回 西福寺の文化財(5) 西福寺一切経勧進経(1)
  • 第22回 西福寺の文化財(6) 西福寺一切経勧進経(2)
  • 第23回 西福寺の文化財(7) 西福寺一切経勧進経(3)

■仏教には俗に「八万四千の法門」と言われるほど経典、いわゆるお経があります。一般にお経として知られている他にも、お経について論じた著作等や戒律について記したものなども広くは経典に数えられ、そのいわば全集を「一切経」あるいは「大蔵経」と呼びます。経典は中国で翻訳されましたが、8世紀の中国には全部で1,076部5,048巻、経典があったということです。ちなみに大正時代から昭和のはじめ頃にまとめられた「大正新修大蔵経」は、日本の高僧たちの有名な著作も含めて、百科事典並みの分厚い本が85巻にもなります。
日本では古くからこの一切のお経を書き写すという一大事業が行われ、現在でも写経をする人はたくさんいます。
日本に仏教が伝来したのは6世紀の半ばごろと考えられています。仏教が伝来し、人々に受け入れられていくと、当然経典も人々の望むところとなります。けれど仏教が伝えられた当初、海を渡ってもたらされた経典はとても貴重なもので、数も限られていました。経典の内容を勉強したり、その教えを広めたり、お経を唱えたりしようと思うと、その貴重な経典を書き写さなければいけませんでした。また写経そのものが功徳を積むという意味もあって、写経は盛んに行われます。特に奈良時代は、官営の写経所で国家事業としての写経が盛んに行われました。
西福寺に伝わる古写経25巻はそうした奈良時代の古写経を含む貴重な写経群です。「西福寺一切経勧進経」として重要文化財に指定されています。

■ひとこと解説
『三蔵法師』
経典は経・律・論の三種類からなっています。
仏陀や仏弟子の教えを伝える個別の経典、いわゆる「お経」であるところの『経』・教団の戒律などについて収めた『律』・教説について論議研究した『論』です。この三つを三蔵と呼び、この三蔵に通じた者に対する尊称が「三蔵法師」というわけです。

■西福寺の一切経は、室町時代、5代住持(住職)浄鎮の時にもたらされたものです。「西福寺縁起」によると、畠山入道祐順が常宮神社のお告げを受けて一切経勧進を発願、経堂を建立したということです。一切経勧進が始められた年は正確にはわかっていませんが、西福寺文書内に、永享13年(1441)、伊勢貞国なる人物が経堂に本尊として釈迦三尊像を寄進する旨の寄進状が残されており、勧進事業が既に始まっていたことをうかがわせます。
文安2年(1445)に出された一切経勧進に関する後花園天皇の綸旨(りんじ)は、勧進事業に対するいわばお墨付きと言えます。重要文化財となっている一切経25巻は後花園天皇の下賜になるものです。また嘉吉3年(1443)に時の関白二条持基がこの勧進事業に結縁するために書写した般若心経が残されており、こちらも単独で重要文化財になっています。
これら以外にも、道俗貴賎様々な人々から写経が集められ、その数を「西福寺縁起」では七千余巻と伝えています。文安2年には、発願者の畠山入道祐順の縁者と思われる畠山教元からも一切経会を行うための費用として寄進がありました。
このように、一切経勧進は多くの人が結縁し、時間を掛けた大規模な事業だったのです。

■ひとこと解説
『勧進』
もともとは人に仏道を勧めることを意味しましたが、後に浄財の寄付を求めることとして使われるようになりました。
西福寺の場合は経典を集めるために勧進を行いましたが、寺院建設資金の勧進などもあります。平家の南都焼き討ちで焼亡した東大寺の再建のために勧進が行われたことは、歌舞伎の「勧進帳」でもよく知られるところです。

■「西福寺一切経勧進経」25巻の中からいくつかご紹介します。
「大般涅槃経巻第廿九」 
奥書に天平5年(733)3月8日八戸史安麻呂という人物が父母のために書写した旨が記されています。奈良時代は官立の写経所や寺院以外にも個人的な発願や、仏教信者たちの協力によりたくさんの写経が行われました。この涅槃経もそうした写経と考えられ、訓練を積んだ写経生とは違って字体には時に不ぞろいなこともありますが、この時代の一般的な写経事情をうかがうことが出来ます。
「七仏所説神咒経巻第三」「七仏十一菩薩大陀羅尼神咒経巻第一」
この2巻は巻末に記された天平12年5月1日の日付を持つ願文から、「五月一日経」と呼ばれる一切経のうちの一部であったことがわかります。「五月一日経」は光明皇后が亡き父母の追福や衆生の救済などを願い、発願したことで知られる奈良時代を代表する一切経です。天平8(736)年9月に皇后宮職の写経所で写経がはじめられ、実際には天平勝宝元年(749)まで続けられ、七千巻あまりの経巻が書写されたということです。また正倉院文書からこの写経の筆者や書写経過、写経所の活動について確認できることでも知られています。
「華厳経巻第三十・三十六・三十八」
華厳経は詳しくは「大方広仏華厳経」といい、東大寺の大仏がこの経典をもとに作られたことや最終章「入法界品」に描かれる善財童子の求法の旅などで知られています。巻末に神護景雲2年5月13日、称徳天皇が父である聖武天皇のために書写した旨の願文があり、「景雲経」あるいは「称徳天皇勅願一切経」と呼ばれています。

■ひとこと解説
『写経所』
写経所のスタッフは写経を担当する経生だけではありませんでした。
校正担当、装丁担当、経文を磨いて金字のつや出しを行う瑩師(えいし)、外題を書く題師、見返しに絵を書く画師など経典を整えるためにたくさんの人が働いていたのです。写経事業の規模の大きさがうかがえますが、奈良時代を過ぎると衰退しました。


西福寺一切経勧進経(3)

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