みんなの文化財 第19~20回 深坂古道(1)(2)
最終更新日:2015年3月1日
深坂古道(1)
深坂古道(2)
- 第19回 深坂古道(1)
- 第20回 深坂古道(2)
■古道とは文字通り古(いにしえ)の道。かつて人馬の往来した歴史の道です。考古学や歴史学においては、今や古道の解明を大きな研究テーマの一つとして取組んでいます。なぜなら、各地の歴史・文化は、それぞれ個別に発生したものではなく、道を通して互いに結び合い、人、物、財、情報、技術、思想などが行き来することで生み出されたものだからです。人の身体にたとえれば血液の流れのようなものですね。
古代、敦賀から近江への道は敦賀市南部の追分で2つに分かれ、一つは駄口、山中を経て湖西(マキノ町)へ向かう愛発山越えの道。後に七里半越えとも呼ばれ、だいたい現在の161号線に近いルートです。
もう一つがこの深坂古道、湖北の塩津(西浅井町)へ出る道で、塩津山越えとも言います。奈良時代以来のいわゆる「万葉の道」の一つで、平安時代に成立した法律の細則書である「延喜式(えんぎしき)」には、北陸道諸国のお米を都へ運ぶために、敦賀の津からこの道を経由して塩津へ至るルートが定められています。紫式部も、少女時代、父・藤原為時に伴われてこの深坂を通りました。
■ひとこと解説
『歴史の道』
古くから文物や交流の舞台としてわが国の歴史を形づくってきた道を、「歴史の道」と呼び、全国各地で調査や整備が進められています。これには、水路や運河、海上交通も含まれます。もちろん古道はそれ自体が文化財なのですが、ここで大切なのは、道だけではなく、沿線の文化遺産や周囲の環境をも含めて総合的、体系的に考えようということです。
・・・つまり、歴史の道を歩くには、道草を食うことが大事なのです。
■坂」は「境界」を意味し、また「峠」は「手向け」に由来するといわれます。坂つまり峠は異郷への関門であり、異郷の神への儀礼の場、同時に、それは旅する者にとって道中の無事を祈願する節目でもありました。
万葉歌人、笠朝臣金村も、塩津山を越えるとき、天空に向かい疫を祓う矢を放ちます。
丈夫の 弓末振り起こせ 射つる矢を 後見む人は 語り継ぐがね(『万葉集』364)
弓の弦を引き絞り放った矢が、頭上高く遥かな梢に突きたつ。その矢を見た人が後々まで語り継ぐ、という詩人のイメージは、勇者の自負と同時に、異郷を往く旅情をも感じさせます。
また、旅の途上の折節、留守を託してきた家人への想いがよぎるのでしょう。
塩津山 打ち越え行けば 吾が乗れる 馬ぞ爪づく 家恋ふらしも(『万葉集』365)
当時、旅先で何かが起こるのは、残してきた家に原因すると考えられました。この場合、家で詩人を恋うているのは妻か恋人か。断っておきますが、馬がホームシックに罹った、という内容ではありません。念のため。
無事に深坂を越えた金村は、このあと敦賀津から船に乗り、田結の浜に立ち昇る塩焼きの煙を見て、「・・・田結が浦に海未通女(あまおとめ) 塩焼くけぶり 草枕旅にしあれば 独りして・・・」の歌を詠んでいます。
■ひとこと解説
『塩の道』
古代、若狭湾岸一帯では製塩がさかんに行なわれました。敦賀の塩は、深坂を越え、湖北から琵琶湖の水運で都へ運ばれました。そこで、塩の積出し港だから、そこが塩津。ちなみに塩の道といえば糸魚川と信州を結ぶ千国(ちくに)街道が著名ですが、深坂古道も、まさしく塩の道なのです。それゆえ道中の深坂地蔵(西浅井町沓掛)は、一名“塩かけ地蔵”ともいい、古来、塩をお供えするのが慣わしとなっています。