みんなの文化財 第12~14回 穴地蔵古墳(1)(2)(3)
最終更新日:2015年3月1日
穴地蔵古墳(1)
穴地蔵古墳(2)
- 第12回 穴地蔵古墳(1)
- 第13回 穴地蔵古墳(2)
- 第14回 穴地蔵古墳(3)
■敦賀半島の付け根に注ぐ井ノ口川の河口に程近く、花城橋(はなじりばし)から左岸を少し遡った山裾に、福井県指定史跡「穴地蔵古墳(あなじぞうこふん)」があります。
この古墳は7世紀前半~中頃に築かれた径12m、高さ3.5mの円墳(えんぷん)で、内部には横穴式石室(よこあなしきせきしつ)が造られています。横穴式石室とは文字どおり横方向に入口のある石造りの部屋で、一般的に、棺を納める玄室(げんしつ)と、通路にあたる羨道(せんどう)からなっており、入口を閉塞石(へいそくせき)で閉ざします。上から埋葬して蓋をする竪穴とは違い、閉塞石を取り外すことで、繰り返し埋葬することが可能です。
石室の奥には石棚(いしだな)が作り付けられ、その上に3躯の石の地蔵尊が祀られており、これが穴地蔵という名前の由来です。
ところで、この石棚を持つという点が穴地蔵古墳の最大の特徴と言えるでしょう。石棚を持つ古墳といえば、全国的には和歌山市の岩橋千塚古墳群(いわせせんづかこふんぐん)に数多いことで知られていますが、県内では、穴地蔵古墳を始め敦賀に3基、美浜町に1基を数えるのみです。近隣の滋賀県湖西地域を含めてもマキノ町に1基あるだけで、合せてもたったの5基しかないという、たいへん希少なものです。
■ひとこと解説
『タテとヨコ』
竪穴と横穴、考古学でよく使うことばですが、この「タテ・ヨコ」の基準は何でしょう。それは地平線です。つまり地面に対して垂直方向が竪で、水平方向が横です。人間の立ち姿と寝姿の違いですね。さあ、竪か横か迷ったら、ゆったり横になってみませんか。
■穴地蔵古墳に祀られた3躯の地蔵尊のうち、1躯には永正(えいしょう)15年(1518)の年号が彫られているので、すなわちその時点で、既に古墳の石室が開けられていたことが解ります。
その頃といえば、附近にある名刹、西福寺(⇒「みんなの文化財」第1回、第2回)の活動が非常に盛んだった時期であり、この穴地蔵のお地蔵様も、もともとは西福寺にゆかりのあるものだと伝えられています。
また、過去の調査報告によると、明治時代の初め頃まで、石室の前に地蔵堂が建っていたらしいと書かれています。おそらく廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって取り壊されてしまったのでしょう。今も残る礎石の跡から、2.75m(約9尺)四方のお堂であったと推定できます。
その後、地元・櫛川区の皆さんによって、お地蔵様の信仰の場として大切に守り継がれ、現在に至っています。
■ひとこと解説
『廃仏毀釈』
明治時代の初め、“神”と“仏”を切り離し、神道を国教にしようとする政府の政策によって、仏教を抑えつけ、寺院を破壊するなどの運動が全国で起こりました。慶応4年(1868)3月の神仏判然令が直接のきっかけで、明治8年(1875)、信教自由の保護が通達されるまで、多くのお寺が犠牲になったといわれます。
あの、誰もが修学旅行でお馴染の奈良の興福寺でさえ、一時は骨董商に売却され、焼かれる寸前だったそうです。建物を燃やして、焼け残る金具ぶんだけの値段だったといいます。そんなことになっていたら、鹿もさぞ驚いたことでしょう。
■古墳には、通常、亡くなった被葬者(ひそうしゃ)と一緒に副葬品(ふくそうひん)が納められています。これは、古墳の年代や被葬者の地位などによって、その種類や組合せが異なりますが、故人が身に付けていた武器や武具、装身具、葬礼に使った道具類、その地位を誇示するステータスシンボルや来世のために特別に用意された物品など、さまざまなものがあります。
穴地蔵古墳では、もはや副葬品は残っていないと思われていました。ところが、近年、発掘調査の結果、石室内部に溜まった土の中から、須恵器(すえき)などの遺物が出土しました。これらは、この古墳が造られた当時のものと見てよさそうです。
この須恵器の型式によって、年代をある程度絞り込むことができます。たとえば写真の、つまみの付いた蓋は、7世紀初頭より前ではまずありません。また、かえりの付いた杯は7世紀後半より後ではない。したがって7世紀前半から中頃という年代が得られます。(ただし、もう少し新しく見る研究者もいます)、これは、ほぼ古墳造営が終わろうとする時期にあたります。
■ひとこと解説
『須恵器』
5世紀前半頃、朝鮮半島南部の伽耶(かや)地域からの渡来工人によって始まったやきものです。それまでのわが国在来の土器とは違って、轆轤(ろくろ)を使い、窖窯(あながま)の中で高温の還元炎(かんげんえん)で焼くため、固く焼き締まり、青味がかった灰色を呈しています。全般に古代を通じて(一部地域では中世にも)生産され、この技術が、後にわが国の伝統的な陶器生産に引継がれていきました。敦賀では、葉原(はばら)で、9世紀頃の窯跡が見つかっています。
ちなみに陶という字、「すえ」という読み方があるのをご存知でしたか。
穴地蔵古墳(3)